2017-08-09

 

雨に降られたが、傘を持っていないので、濡れながら歩く。最近は天気予報が当たらず、傘と雨が入れ違いになる。

 

傘を差すという行為は、本質的には、何を守っていることになるのだろうか。

 

尊厳、と浮かんで、すぐに取り消した。

2017-07-27

 

 1ヶ月ぶりに家庭教師のバイトがあった。

生徒は相変わらずスマホパズルゲームに夢中で、テストの復習をしようというぼくの提案に耳を貸そうともしなかった。けれども、高校に入ってから、その生徒は授業と部活に忙しくなり、その合間を縫って塾にも通うようになって、ぼくが授業に行くのもその忙しい日々のなかの休憩に近い、勉強をするともしない、いい意味で間の抜けた、そんな時間を過ごすためなのだった。だから、ぼくは勉強を強いることはせず、隣で彼がパズルを並べるのを時間中眺めていた。

 

ぼくは、小さかった頃のことを思い出す。ぼくが小学生の頃、3つ年上の兄は、時々友達から少し古くなったゲームソフトを借りてきて、ブックオフで買ったらしいよれよれの攻略本を傍らに熱心にゲームをプレイしていた。兄のやるゲームは、ファイナルファンタジーだとかドラゴンクエストだとか、そういうRPGものばかりで、時折ぼくにも貸してくれることがあったけれど、アクションを伴わないそれらの面白さが当時のぼくにはあまり理解できなかった。どのゲームにも兄はそれなりに熱中しているようだった。

しかし、思春期というものは乱暴で、突然やってきた新たな価値は、それまでの価値を蹂躙していく。いつしか兄はそうしたゲームの類をやらなくなり、新しく手に入れたギア(パソコン、iPodiTunes...)に夢中になる。兄が使っていたゲームソフトや攻略本は、元々の持ち主に返されたか、一部は持ち主自身も興味を失って放置されたのか、物置部屋の本棚で静かに埃を被っていく。ぼくと違い、兄には懐古趣味がないようで、思い出したようにそれらが引っ張り出されることは遂になかったし、それらはいつしか物置部屋からも姿を消してしまった。

RPGというのは、同じ操作の繰り返しだ。レベルが上がれば、より強い武器でより強い敵と戦うようになる。けれど、自分が上達しているとか、より強くなっているというのは数値が生み出す錯覚で、実際のところ、やっていることは大して変わらない。使えるスキルだとか使える武器だとか、そういうものが増えても、決まったように同じ操作を繰り返しているだけなのだ。ゲームをやり込むことは作業であり、製作側の巧妙な動機付けにより、プレイヤーはいつしか、ゲームを「している」のではなく「させられる」ようになる。だから、それに飽きたとき、あるいは文字通り全クリアしたあと、独特の虚しさが残る。

兄は、iPod touchを手に入れてからも、ゲームアプリに入れ込むことはなかった。それは、かつて自分があんなにも夢中になっていたゲームをしなくなった理由が、単に「飽きた」からだけではないことを知っていたからかもしれない。兄は賢明にも、作業によって生まれた虚しさを別の作業で埋めようとはしなかった。彼が新しく手に入れたパソコンやiPodで何をしていたのかはよく分からないが、かつての"作業ゲー"と同じ轍は踏まなかったのだろうと思う。

 

ぼくの目の前にいる生徒は、お金を払って買った時間をも惜しんで、ゲームに熱中している。彼が大人になって思い出すのはしかし、彼が今ハマっているゲームなどではなく、無形で無名の、雑多でぼんやりとした、一生懸命な記憶と気持ちだ。彼が夢中になって費やしている時間は、思春期の乱暴な価値交代の憂き目にあって、いつか記憶にも残らないほどあっさりと捨てられてしまうのだろう。「ガチャ」「課金」「イベント」「転生進化」...、夢中になっていたそのことさえいつか忘れられてしまうような、彼の未来における空白の過去を、ぼくは見つめているのだった。

 

いい加減手持ち無沙汰になったぼくは、Twitterを開いて、業務と連絡が滞っているサークルの先輩のアカウントをチェックする。催促のラインは昨日から未読無視されているが、予想通りTwitterでは生産性のないツイートや偉ぶった格言風のツイートを量産していた。未読無視しながらTwitterで呟ける脳の構造って何だ。共通のフォロワーを通じてツイートしていることがバレるとか思わないのだろうか。怒る気持ちもないし、呆れる気持ちもなかったけれど、都合の悪い現実から目を背け、自分に都合のいい世界に閉じこもってしまう心の弱さを、ただ可哀想に思った。

そのまま、タイムラインに流れるツイートをいくつか眺める。Twitterを開くのは久しぶりだったけれど、そこに流れるツイートはほとんど変わっていないように思えた。あるある、風刺、大喜利。内向的な人によくある特徴と題したツイートが目に入る。添付されているのは、約束の日が近づくと憂鬱になる心理を描いたイラストだった。こんなこと言わなくてもいい、と思う。それは多くの人に共通の心理かもしれない。けれど、だからといって共通の認識にしていいとは限らない。当日になって楽しいと感じられるのは、来るまでの憂鬱や葛藤がそれぞれの心の内に留まっているからだ。相手も面倒な気持ちを抱いているだとか、あるいは相手も来るのが嫌だったのだろうと、そんなことをお互いに思い合うなかで、どうやってその日を楽しめるというのか。言わないことで成り立っているものもあるのだ。けれども、こんなナイーブなことを思ってしまうのは、ぼくが旅行だとかご飯会だとかを企画している側の人間だからかもしれなかった。

 

バイトが終わったのは22時過ぎで、ぼくは小田急線のホームで少しぼーっとしたあと、各駅停車の電車に乗って家に帰った。

 

傘を持って出たけれど、雨は降らなかった。

 

 

入信できなくて申し訳ありません


何かのために、ストイックに努力できる人たちがいる。

 

司法試験や公務員試験に向けて、法学部の授業と予備校を掛け持ちして勉強する人や、希望の学科に進学するために良い成績を取ろうとする人たちもいる。家から大学まで1時間以上もかかるのに、毎日満員電車に乗って1限に出席する人や、1限よりも早い部活の朝練に出る人もいる。部活のために食事制限をしたり、あるいは無理してカロリーを摂ったりする人たちもよく見かける。

 

ぼくは、そういう人たちがうらやましい。そんなに頑張れることが、すごい、と思う。
ぼくも形の上ではそうだ。何かすべきことがあるなら、ある程度自分のやりたいことを犠牲にすることはできる。
けれど、ぼくは、そういったことをしていると、逃げ出したい気持ちでいっぱいになる。自分がいま大切だと思う何かと引き換えに労力を費やすこの時間が、一体何になるというのか。そんな疑念を振り払えなくなってしまう。
もっとも、彼らも、全員が積極的な目標のために努力しているわけではないのだろう。将来の選択肢を増やすためとか、先生や親に怒られるのが怖いからとか、なんとなく、なんていうのもあるかもしれない。けれど、何かのために、今の心地良さを投げうつことができる、という点では同じだ。

 

この前、既に就職した、あるサークルの先輩と話をした。(正確に言えば、LINEで少し会話した程度だ。)その人は、毎日日付が変わるまで残業して、休日出勤も厭わず働いているのだそうだ。想像より遥かに厳しい労働環境を自嘲しながらも、その人は自分がそこで働くことに意味を見出しているようだった。

 

まるで、宗教のようだ。

 

信じるもののために、何かを投げうつ。

 

ぼくは、目標を、自分自身の努力を、信じることができない。なにか信じることのできる目標を持ってはいないし、自分の努力がいつか何かに繋がると信じることもできない。だから、頑張れない。人はそれを「怠け」だとか、「無気力」だと言うかもしれない。

ぼくは怠けていたから留年した。けれど、その「怠け」には、切実な、痛切な、「何かを信じていたい」という気持ちがあった。そのためになら辛さや苦しさにも耐えることのできる、そんな何かを心の底から求めていた。

 

分かってはいるのだ。

 

自分がいかに無益な時間を過ごしていたか。ぼくの過ごす時間が、いかに無気力で怠惰で何ら意味がないか。そして、ぼくのような、頑張れない、タフでストイックに努力することのできない人間が、"社会"にとって、いかに無益な存在であるか。
学部選択も、学生寮も、授業を履修する権利も、チャンスというものは、それを活かすことのできる人間にしか与えられない。ぼくのように、信じて何かを投げうつことのできない人間には、チャンスなど与えられないのだ。

 

投資する価値のない存在で、申し訳ない。信じて努力することのできないぼくは、社会にとってはゴミクズのような存在でしかなく、心底、申し訳ありません。

 

2017-07-15

午前のバイトに間に合うようにかなり無理をして起きたのだけれど、携帯を見ると当日キャンセルの連絡が入っていた。二度寝しようにも暑くて眠れず、何かしようにも身体が怠かったので、ベッドに寝転がったままなんとなくスマホをいじってダラダラ過ごした。この日授業に行く予定だった生徒がハマっているというYouTuberの動画をいくつか見てみた。コーラ風呂に入ってみただとか、いろんな飲み物を混ぜて飲むだとか、どれも馬鹿みたいに思えるようなそんな動画ばかりで、もちろんそんな動画ばかりであることは知っていたのだけれど、改めてそれらを見ていると、多くの子どもたちがこれに夢中になっていることよりも、子どもたちに見せるために大人がそんなことをしているということに呆れてしまうのだった。

家にいても何も出来ない気がしたので、昼前に大学に向かい、図書館で勉強をすることにした。試験直前にも関わらず図書館で勉強している人は少なく、節電のために図書館の空調が停止することもなくて、比較的居心地のいい日だった。

夕方頃、休憩も兼ねて中庭でアイスを食べていると、しばらく会っていないクラスの友人を見つけた。彼はスマホを見ながら静かにベンチに座っていたが、声を掛けると途端に陽気になって喋り始めた。彼がそんな風に明るく振る舞うのは、クラスでもあまり人と交わってこなかったぼくへの配慮かもしれなかったし、あるいは話す人に気まずさを感じさせない彼の優しさなのかもしれなかった。

近くのスーパーで出来合いの惣菜を買って家に帰り、なんとなく毎週録画していたバラエティ番組を見ながら夕食を食べた。

近頃はテレビを見ること自体が少なくなっていて、バラエティ番組を観るのも久しぶりだったけれど、それら番組のあまりのつまらなさに驚いた。そのつまらなさは、脚本があるのにいかにも自然に振舞おうとするだとか、冷静に考えればあり得ないような誇張に溢れたエピソードを披露したりだとか、大して面白くもないギャグにも過剰に反応するだとか、そんな至る所に充ち満ちる白々しさのようなところから来ていて、画面の中で繰り広げられるそんな芝居に、テレビの前のぼくは鼻白んでしまった。学歴もプライドも高いたくさんの大人たちが真面目に仕事をしているはずなのに、どうしてこのような事態になるのだろうと思った。

夕食が済むとすぐにテレビを消して、シャワーを浴びた。そのあと、いくつかやることを済ませてからベッドに入ったが、この日はなかなか寝付けなかった。

 

 

2017-07-01

 

教室の引き戸を開けると、そこには先客がいた。

彼女は窓際から2列目の机の上に座り、浮かせた両足をぷらぷらさせながらぼんやりと黒板の方を眺めていた。彼女はぼくが入ってくるのに気づくと、教卓のそばの机まで歩くぼくを何の気なしに眺め、ぼくが彼女に向き合うようにして机に腰掛けるのを見届けてから、「君もここに来たの」というようにぼくの顔を見た。ぼくは2人共がこの教室に赴いた奇遇を口にしかけたが、そのセリフの陳腐さに気づいたところでやめた。

卒業式が終わった後の教室は、全てが物哀しく、全てが懐かしい。傾いた陽の光が窓から差し込み、薄暗い教室が柔らかいオレンジ色に染まる。みんなの荷物はどこにも残されていなかったが、黒板脇の掲示物や教室の後ろに貼られた文化祭の賞状はそのままだった。

きちんとボタンを留められた彼女のブレザーの胸に、卒業式前に生徒一人ひとりに渡されたコサージュは見当たらなかった。白い一輪の花をあしらったいかにも安物のそのコサージュは、胸のポケットに挿してもちゃんと正面を向いてくれず、ぼくが気がつくたびに左の方へと顔を向けているのだった。

卒業を話題にしたところで特に話すことはなかったので、ぼくは親しくしていた友人についてのエピソードを2つ、3つ話した。話す途中で、彼らが彼女と共通の知人ではないことに気づいたが、彼女はまるで彼らだけでなく、彼らについてぼくがどのように話すかまで知っているかのように、穏やかな笑みを浮かべて聞いてくれた。大学に入ってから知り合った彼女は、ぼくが話に挙げたぼくの友人たちを知らない。けれど、お互いを知ってさえいれば、それでいいのだった。

胸に挿した白い花のコサージュがいつの間にか無くなっているのに気づいたぼくは、彼女と話すのをやめて、体育館まで探しに戻ることにした。本当はもう少し教室に残って彼女と話していたかったが、白い花のコサージュを無くしたままにしておくわけにはいかなかった。コサージュを探しに戻る旨を彼女に伝えて、体育館まで戻ったけれど、体育館にも、体育館までの道にも、どこにもコサージュは落ちていなかった。ぼくは残念に思いながらも来た道を戻り、彼女が待つ教室へと向かった。

教室の引き戸は開いていた。教室のどこにも彼女はおらず、さっきまで教室を包んでいた優しい夕陽の光も、どこかへ消えてしまっていた。窓の外には白い曇り空が広がっていて、天然のセピア色を失った教室はただ薄暗く、がらんどうだった。ぼくは彼女を探しに教室を出たものの、彼女がどこに行ったのか、皆目見当もつかなかった。自分1人しかいない学校の中を歩き回るうちに、世界はどんどん現実感を失っていった。早歩きで廊下を進むぼくの心の中で、彼女を探さなければ、という焦りだけが大きくなっていく。どの教室にも彼女はいない。揺らぐ世界の中で、ほとんど飛び降りるようにして、ぼくは階段を降りた。

 

そこでぼくはまどろみから目を覚ました。ぼくのいる図書館の窓の外で、雨がぱらぱらと降っていた。

 

 

「好きな人、2人いる」

 

「好きな人、2人いるんです」と、生徒が言った。

 

それだけが、本当の気持ちだと思った。

2017-06-20

気がつくと10時を過ぎていた。夢の中でどこからか目覚ましのアラームが聞こえてきたという微かな記憶があるけれど、その時のぼくは、それが現実に起きる合図だとは気づかなかったようだ。8時に最初のアラームをセットしているので、2時間ほど夢現つの境をさまよっていたことになる。近頃はこういう、起きるのに必要だけれど現実的には不必要な時間、に多くのものを失っている気がする。

大学に着いたのは11時くらいで、出るつもりだった2限の講義はまだ続いているはずだったけれど、結局出るのはやめにした。憲法を「有機的に解明」するというその講義は、憲法の体系を新しい切り口から学習していくことを趣旨としているようだったが、そもそも普通の切り口から憲法を学習したことのないぼくにとって、その講義は余計に混乱を招くものだった。

昼前だったけれど、食堂が空いていたので先に昼食を済ませ、それから図書館に入った。読みかけだった文芸誌の中篇創作を読み終えたあと、授業の進度からかなり遅れている刑法の勉強をして夕方まで過ごした。

食堂で夕食を済ませてからバイトまで時間があったので、大学の生協書籍部で新刊の本を漁ることにした。『反「大学改革」論』なる本が目を引いたのでぱらぱらと読んでみる。元々は製品の品質改善に用いられていたPDCAサイクルを安易に授業計画の実行に適用するのは、本来的には誤用であり、そのような、まるで生徒を製品のように物象化する発想はどうたらこうたら、というようなことが書いてあった。それは確かにその通りなのだけど、社会が人を「人材」として、能力を身につけた/つけていない、成果を出せる/出せないとかいう基準で評価される、いわば利益のための道具として見る世の中で、その指摘はどこまで通用するのだろうと、ぼんやりと思った。

この日のバイトは21時前からと、かなり遅かった。本当は20時開始のはずだったけれど、生徒がいつものごとく遅れてやってきたので、その分終わる時間も遅くなった。帰宅すると日付が変わる直前だった。