入信できなくて申し訳ありません


何かのために、ストイックに努力できる人たちがいる。

 

司法試験や公務員試験に向けて、法学部の授業と予備校を掛け持ちして勉強する人や、希望の学科に進学するために良い成績を取ろうとする人たちもいる。家から大学まで1時間以上もかかるのに、毎日満員電車に乗って1限に出席する人や、1限よりも早い部活の朝練に出る人もいる。部活のために食事制限をしたり、あるいは無理してカロリーを摂ったりする人たちもよく見かける。

 

ぼくは、そういう人たちがうらやましい。そんなに頑張れることが、すごい、と思う。
ぼくも形の上ではそうだ。何かすべきことがあるなら、ある程度自分のやりたいことを犠牲にすることはできる。
けれど、ぼくは、そういったことをしていると、逃げ出したい気持ちでいっぱいになる。自分がいま大切だと思う何かと引き換えに労力を費やすこの時間が、一体何になるというのか。そんな疑念を振り払えなくなってしまう。
もっとも、彼らも、全員が積極的な目標のために努力しているわけではないのだろう。将来の選択肢を増やすためとか、先生や親に怒られるのが怖いからとか、なんとなく、なんていうのもあるかもしれない。けれど、何かのために、今の心地良さを投げうつことができる、という点では同じだ。

 

この前、既に就職した、あるサークルの先輩と話をした。(正確に言えば、LINEで少し会話した程度だ。)その人は、毎日日付が変わるまで残業して、休日出勤も厭わず働いているのだそうだ。想像より遥かに厳しい労働環境を自嘲しながらも、その人は自分がそこで働くことに意味を見出しているようだった。

 

まるで、宗教のようだ。

 

信じるもののために、何かを投げうつ。

 

ぼくは、目標を、自分自身の努力を、信じることができない。なにか信じることのできる目標を持ってはいないし、自分の努力がいつか何かに繋がると信じることもできない。だから、頑張れない。人はそれを「怠け」だとか、「無気力」だと言うかもしれない。

ぼくは怠けていたから留年した。けれど、その「怠け」には、切実な、痛切な、「何かを信じていたい」という気持ちがあった。そのためになら辛さや苦しさにも耐えることのできる、そんな何かを心の底から求めていた。

 

分かってはいるのだ。

 

自分がいかに無益な時間を過ごしていたか。ぼくの過ごす時間が、いかに無気力で怠惰で何ら意味がないか。そして、ぼくのような、頑張れない、タフでストイックに努力することのできない人間が、"社会"にとって、いかに無益な存在であるか。
学部選択も、学生寮も、授業を履修する権利も、チャンスというものは、それを活かすことのできる人間にしか与えられない。ぼくのように、信じて何かを投げうつことのできない人間には、チャンスなど与えられないのだ。

 

投資する価値のない存在で、申し訳ない。信じて努力することのできないぼくは、社会にとってはゴミクズのような存在でしかなく、心底、申し訳ありません。