2017-07-27

 

 1ヶ月ぶりに家庭教師のバイトがあった。

生徒は相変わらずスマホパズルゲームに夢中で、テストの復習をしようというぼくの提案に耳を貸そうともしなかった。けれども、高校に入ってから、その生徒は授業と部活に忙しくなり、その合間を縫って塾にも通うようになって、ぼくが授業に行くのもその忙しい日々のなかの休憩に近い、勉強をするともしない、いい意味で間の抜けた、そんな時間を過ごすためなのだった。だから、ぼくは勉強を強いることはせず、隣で彼がパズルを並べるのを時間中眺めていた。

 

ぼくは、小さかった頃のことを思い出す。ぼくが小学生の頃、3つ年上の兄は、時々友達から少し古くなったゲームソフトを借りてきて、ブックオフで買ったらしいよれよれの攻略本を傍らに熱心にゲームをプレイしていた。兄のやるゲームは、ファイナルファンタジーだとかドラゴンクエストだとか、そういうRPGものばかりで、時折ぼくにも貸してくれることがあったけれど、アクションを伴わないそれらの面白さが当時のぼくにはあまり理解できなかった。どのゲームにも兄はそれなりに熱中しているようだった。

しかし、思春期というものは乱暴で、突然やってきた新たな価値は、それまでの価値を蹂躙していく。いつしか兄はそうしたゲームの類をやらなくなり、新しく手に入れたギア(パソコン、iPodiTunes...)に夢中になる。兄が使っていたゲームソフトや攻略本は、元々の持ち主に返されたか、一部は持ち主自身も興味を失って放置されたのか、物置部屋の本棚で静かに埃を被っていく。ぼくと違い、兄には懐古趣味がないようで、思い出したようにそれらが引っ張り出されることは遂になかったし、それらはいつしか物置部屋からも姿を消してしまった。

RPGというのは、同じ操作の繰り返しだ。レベルが上がれば、より強い武器でより強い敵と戦うようになる。けれど、自分が上達しているとか、より強くなっているというのは数値が生み出す錯覚で、実際のところ、やっていることは大して変わらない。使えるスキルだとか使える武器だとか、そういうものが増えても、決まったように同じ操作を繰り返しているだけなのだ。ゲームをやり込むことは作業であり、製作側の巧妙な動機付けにより、プレイヤーはいつしか、ゲームを「している」のではなく「させられる」ようになる。だから、それに飽きたとき、あるいは文字通り全クリアしたあと、独特の虚しさが残る。

兄は、iPod touchを手に入れてからも、ゲームアプリに入れ込むことはなかった。それは、かつて自分があんなにも夢中になっていたゲームをしなくなった理由が、単に「飽きた」からだけではないことを知っていたからかもしれない。兄は賢明にも、作業によって生まれた虚しさを別の作業で埋めようとはしなかった。彼が新しく手に入れたパソコンやiPodで何をしていたのかはよく分からないが、かつての"作業ゲー"と同じ轍は踏まなかったのだろうと思う。

 

ぼくの目の前にいる生徒は、お金を払って買った時間をも惜しんで、ゲームに熱中している。彼が大人になって思い出すのはしかし、彼が今ハマっているゲームなどではなく、無形で無名の、雑多でぼんやりとした、一生懸命な記憶と気持ちだ。彼が夢中になって費やしている時間は、思春期の乱暴な価値交代の憂き目にあって、いつか記憶にも残らないほどあっさりと捨てられてしまうのだろう。「ガチャ」「課金」「イベント」「転生進化」...、夢中になっていたそのことさえいつか忘れられてしまうような、彼の未来における空白の過去を、ぼくは見つめているのだった。

 

いい加減手持ち無沙汰になったぼくは、Twitterを開いて、業務と連絡が滞っているサークルの先輩のアカウントをチェックする。催促のラインは昨日から未読無視されているが、予想通りTwitterでは生産性のないツイートや偉ぶった格言風のツイートを量産していた。未読無視しながらTwitterで呟ける脳の構造って何だ。共通のフォロワーを通じてツイートしていることがバレるとか思わないのだろうか。怒る気持ちもないし、呆れる気持ちもなかったけれど、都合の悪い現実から目を背け、自分に都合のいい世界に閉じこもってしまう心の弱さを、ただ可哀想に思った。

そのまま、タイムラインに流れるツイートをいくつか眺める。Twitterを開くのは久しぶりだったけれど、そこに流れるツイートはほとんど変わっていないように思えた。あるある、風刺、大喜利。内向的な人によくある特徴と題したツイートが目に入る。添付されているのは、約束の日が近づくと憂鬱になる心理を描いたイラストだった。こんなこと言わなくてもいい、と思う。それは多くの人に共通の心理かもしれない。けれど、だからといって共通の認識にしていいとは限らない。当日になって楽しいと感じられるのは、来るまでの憂鬱や葛藤がそれぞれの心の内に留まっているからだ。相手も面倒な気持ちを抱いているだとか、あるいは相手も来るのが嫌だったのだろうと、そんなことをお互いに思い合うなかで、どうやってその日を楽しめるというのか。言わないことで成り立っているものもあるのだ。けれども、こんなナイーブなことを思ってしまうのは、ぼくが旅行だとかご飯会だとかを企画している側の人間だからかもしれなかった。

 

バイトが終わったのは22時過ぎで、ぼくは小田急線のホームで少しぼーっとしたあと、各駅停車の電車に乗って家に帰った。

 

傘を持って出たけれど、雨は降らなかった。